渓月堂と柿

菊池寛の名作「恩讐の彼方に」で知られる特産品『巻柿』。
「人が好き、お菓子が好き」。戦後、まだ世の中に甘いものが行き渡らない頃、
巻柿の生産をはじめた事から、私たち渓月堂の物語は始まります。

「人が好き、お菓子が好き」創業者と巻柿の出会い

江戸時代から続く中津名物『巻柿』。それは耶馬溪の自然が生んだ特産品でした。

耶馬溪 伝説によれば、耶馬溪近辺では猪肉を藁に包み、台所の天井に吊るして保存する習慣があったといいます。 それにならって渋柿を干柿にした後、同様にして保存したことから巻柿は生まれました。
菊池寛の名作「恩讐の彼方に」で知られる巻柿は、耶馬溪の厳しい自然が生んだ貴重な食文化を象徴するものであり、江戸時代から中津名物として知られる特産品でした。

失敗は成功の元。終戦後、耶馬溪物産で巻柿の生産を開始した私たちでしたが。。

干柿イメージ 終戦後しばらくの間は、大分でも甘いものどころか食べ物が世の中に行き渡らない有り様でした。
「人が好き、お菓子が好き」という想いから、私たちは古くから中津名物として知られる巻柿を、自分の手で生産する事を考えます。
昭和25年、巻柿の生産を開始しますが、十分な設備もノウハウも持たない私たちにとって、その道は平坦なものではありませんでした。
火力乾燥した巻柿がアルコール化してしまい、仕方なく県の工業試験場で柿ジャムに作り変える依頼をしたこともありました。
しかし、この失敗からアイデアを受けた私たちは「柿羊羹」づくりに取組み、見事成功させます。
これが渓月堂にとってはじめての和菓子づくりであり、この成功が現在への足がかりとなりました。

召し上がるお客様との接点を求めて。念願の小売店を出店

和菓子の製造卸から製造小売へ。昭和39年ついに小売店舗を出店します。

製造風景 巻柿や柿羊羹を柱に、順調に商いを大きくしていた私たちは、召し上がるお客様との接点を求め、ついに昭和39年、念願の小売店をオープンさせます。
渓月堂は、昭和46年に工場を拡大移転し商品開発に取り組み、昭和49年には干柿に上品な白あんを詰めた「豊(とよ)のころ柿」を発売。その後も支店出店・新商品開発に積極的に取り組みます。

銘菓『豊の菓柿(とよのかし)』誕生。その源泉は和の文化への深い尊敬にありました。

福沢諭吉旧居 平成に入るころには、すでに渓月堂は柿を中心とした和菓子の老舗として知られる存在となっていました。
渓月堂は和菓子のおいしさとは何か、その本質を得ようと試行錯誤を重ねる中で、日本中の名店の和菓子を味わい、向き合います。
2000年に入り、ひとつの答えにたどり着きます。それは「本当に美味しい和菓子ほど、使用する原材料の種類が少ない」ということ。それがつまり「ありのまま、素材そのものの良さを大事にする」という和の文化に通じることを理解し、深い感銘を受けます。
和の心を和菓子にすべく研究を続け、2002年に銘菓『豊の菓柿』を作り上げます。
それは渓月堂創業のきっかけとなった巻柿に、最も相性がいい実生の柚子を練りこみ、食べやすく薄切りしたシンプルな一品でした。

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